説明
ドイツ軍に蹂躙された第2次世界大戦を生き抜いたシャンパーニュ!
今から80年も前のことになりますが、第二次世界大戦のため1940年から1944年までフランスの名だたるワイン産地はほとんどドイツ軍に占領されてしまいました。ヒトラー自身はワインは飲まなかったそうですが、ゲーリング国家元帥はボルドーワインを、ゲッペルス宣伝相はブルゴーニュワインを、そしてリッベントロップ外相はシャンパーニュ愛好家として有名で、ナチスドイツがフランスのワインに目をつけたのも当然の成り行きでした。
1940年6月、ドイツ軍はフランスに侵入すると間もなくシャンパーニュ地方を手中に収めました。幸いブドウ園が戦場となることはなかったものの、多くのシャンパーニュがドイツ兵によって略奪されてしまったと言います。加えてワインの生産に携わる人材も戦争に駆り出され、ガソリンや農薬等は不足し収穫量は戦前に比べて半減してしまいました。ガラスも枯渇し使用済みのボトルも回収し再利用したと言います。
1943年になるとフランスのレジスタンス活動が活発化し、ドイツによる監視は厳しさを増しました。レジスタンス活動に参加したブドウ農家やシャンパーニュメゾンは次々と逮捕され、多くの人がナチスの強制収容所に送られたと言います。モエ&シャンドン社などは上層部のほぼ全員が強制収容所か刑務所送りになってしまったほどです。
しかし1944年8月に米軍によりシャンパーニュの中心都市エペルノとランスはドイツ占領下から解放されました。ようやく自由を取り戻したシャンパーニュ地方は徐々に活気を取り戻し再びシャンパーニュを造り始めました。
当時はシャンパーニュの最重要輸出国はイギリスで、このヴーヴ・クリコのボトルには今なら「Brut」ですが、英語で「Dry」と書かれているのは時代を感じさせます。
ヴーヴ・クリコ
1772年にランスの銀行家で衣料商だったフィリップ・クリコが多角事業を行う企業を「クリコ」の社名で設立したのが起源です。
その後、息子のフランソワがシャンパン造りに熱中したのですが、若くして病死してしまいます。最愛の息子を失ったフィリップはワイン事業を売却するるもりでしたが、フランソワの未亡人ニコルが経営を引き継ぐことを決心し、シャンパン事業と他の事業を切り離し、1810年に「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」と改名することで本格的にシャンパンを生産していきます。
彼女の成功の鍵の一つは、当時、誰もが四苦八苦していた澱のない透明度の高いシャンパンを、いち早く完成させたことでした。それはシャンパンの製造過程で、ピュピートル(pupitre)と呼ばれる穴のあいた台に、ボトルの頭の方を下にして差し込み、数週間の間、毎日少しずつ回転させる方法(ルミュアージュ)を考案したのです。
その後、彼女は大胆で想像力と行動力で、シャンパンを世界の王室にプレゼントするなどしてシャンパンを世界に広めました。特にロシア宮廷へはマダム自ら精力的に売り込み、その味わいが評価されてロシアの上流階級はクリコしか飲まないとまで言われるほどになりました。
ヴーヴ・クリコを長年にわたって率いたマダム・クリコは、28才で未亡人となりました。当時のフランスでは、女性が働くことはタブーでしたが、生計を立てるために、未亡人だけは特別に男性と並んで、社会的に働くことが認められていました。もし、夫が長生きしていたら偉大なシャンパン・メゾン、ヴーヴ・クリコはこの世に存在し得なかったかもしれません。
彼女は89歳で亡くなりましたが、フランスの美徳と、すばらしい料理とワインの楽しみ方を世界に残しました。1987年ヴーヴ・クリコ社は「ルイ・ヴィトン」と合併し、現在、LVMHグループの一員として強固な国際ネットワークをもっています。
ちなみに2011年以降、ボトル表記は「Veuve Clicquot Ponsardin」から「Veuve Clicquot」へと徐々に変更されています。
キャップシールの一部に破れがありますので写真でご確認ください。ラベル、液面の状態は良好です。