説明
カミュゼのラベルですが、実際に造ったのは故アンリ・ジャイエと言われている1987年産
ドメーヌの設立こそ1959年ですが、カミュゼ家は1988年まではブルゴーニュには居住しておらず、その所有する畑は別の作り手に貸し出され、地代の代わりに出来たワインを受け取って、自社ラベルで販売していました(メタヤージュ契約)。そしてカミュゼ家はあの名高いアンリ・ジャイエに対して1988年までヴォーヌ・ロマネやニュイ・サン・ジョルジュを貸し出していたのです。
そのため、この1987年ヴォーヌ・ロマネ・1級・レ・ショームも実際はアンリ・ジャイエが畑を耕し、醸造まで行ったと考えられます。
そのくだりはワイン・ジャーナリスト山本昭彦氏の読売新聞のコラム「ワイン漬けDiary」に詳しく出ています(Yomiuriのサイトからはすでに削除されていますが下記に引用します)。山本氏によると「高騰したジャイエのワインを比較的安く手に入れる方法が、1988年以前のカミュゼのヴォーヌ・ロマネやニュイ・サン・ジョルジュを探すこと」だと言っています。
『ジャイエとメオ・カミュゼをめぐる謎』 山本昭彦著 「読売新聞 ワイン漬けDiary 2009年8月16日」 「アンリ・ジャイエを初めて飲んだのは1990年代半ば。ブルゴーニュ地方はシャニーのミシュラン3つ星レストラン「ラムロワーズ」であった。記念にボトルがとってある。ヴォーヌ・ロマネの1986年。残り3ケースのうちの1本。450フランだった。村名が1万円もせずに飲めたのだ。今なら数十万円はくだらない。2006年に亡くなってから、価格高騰が激しい。それ以前は、ちょっと無理すれば手が届く値段で、フランスのレストランで何度か飲んだ。そのたびに、ジャイエ特有の味わいに魅了された。純粋さときれいな果実味が最大のポイントだ。色調は明るく、淡いルビー。一見、骨組みが弱そうなのに、時間がたつにつれて、しっかりした構造があらわになる。透明な酸とシルキーなタンニン。イチゴやブルーベリーの香りが、極めて自然に紅茶や森の下草の香りに発展する。決して黒い果実ではない。時間とともに甘くなり、どっしりした重さが出てくる。そのたびに、ピノ・ノワールの本質を教えられた。 ロマネ・コンティ以上のプレミアがついた、そのアンリ・ジャイエを安く手に入れる方法がある。ジャイエが引退した1988年以前のメオ・カミュゼのワインを探すことだ。ジャイエは、不在地主だったメオ・カミュゼの小作人をしていた。メタヤージュ(分益耕作)の形で、借りた畑からワインを造り、その半分をメオ・カミュゼに納めていた。ヴォーヌ・ロマネ、ニュイサンジョルジュ村のワインは、事実上、ジャイエが造ったものと見て間違いない。 これは英国の評論家クライブ・コーツらが指摘していることだが、自分でも経験している。90年代後半に87年のメオ・カミュゼを大量に飲んだとき、どう考えてもジャイエと同じ味がしたのだ。21世紀に入ってからも、84、87年など難しい年のジャイエをフランスで飲んだ。一度飲んだら忘れられない味は、しっかりと舌の上に刻印されている。 87年なのに、果実味がこってりとあり、バランスもすばらしい。素晴らしくおいしく飲めた。どんどん甘さが出てきて、やがて華やかな熟成香に変わった。ジャイエにオフヴィンテージなしという伝説がある。オフの物は存在しないから確認できないが、84年は少なくとも良かった。 フォーロワと現在のメオ・カミュゼ当主ジャン・ニコラ・メオは、引退後のジャイエから指導・助言を受けていた。それ以前も、醸造面で指導を受けていたとしても不思議はない。このワインにジャイエの手が入っているという推測は成り立つが、真実はどこにあるのか。ジャン・ニコラ&クリスチャンに聞いてみるしか、正確な理由はわからないだろう。 あれこれ想像しながら飲むのも楽しい。ジャン・ニコラは、ジャイエから教わった最大の教訓は「ワインは喜びの飲み物であること」と語っていた。喜びには知的な興奮も含まれるのだ。」 ロバート・パーカー著「厳正評価 世界のワイン」より |
ラベル、キャップ、液面(コルク下1.0センチ)の状態は良好です。
なお日本の個人輸入では法令により一度に送れるのは日本円で30万円相当までとなっていますので、複数のワインを一度に送りたい場合は合計金額にご注意ください。